ロイヤルコペンハーゲン イヤープレート大全
このページではロイヤルコペンハーゲンのイヤープレート(Royal Copenhagen christmas plates)についての情報を包括的に解説。
イヤープレートのコレクターズガイドとして活用していただければ幸いです。
画像はRoyal Copenhagenより引用させていただきました。
また、イヤープレートとの結びつきが強い新約聖書の口語訳はBible Gatewayを引用させていただいています。
当ページはただいま編集中です。
執筆者の手が空きましたら随時加筆の予定ですので、ご興味のある方はぜひブックマーク等への登録をお願いいたします。
このページのもくじ
イヤープレートの絵柄の意味・考察
D E S I G N S T O R I E S
このページではロイヤルコペンハーゲンのイヤープレート(アンティーク~ヴィンテージ期)の絵柄の意味を解説しています。
1908年(初年度)
Madonna and Child
マドンナとこども
by Christian Thomsen
1908年ロイヤルコペンハーゲンによる最初のイヤープレートのモチーフは、「マドンナとこども」。
新約聖書のキリストの降誕を表わしています。
デザイナーは1898年にロイヤルコペンハーゲンに入社した彫刻家のクリスチャン・トムセン(1860-1921)で、多くのコンペ作品の中から選考されました。
後のクリスマスプレートの多くにもキリスト教徒の心に大切な物語が描かれており、初年度のプレートに込められた意味はデンマークにおけるキリスト教の始まりを意味しているのかもしれません。
青と白の磁器は、1908年の版に示されている主題を描くのに適した媒体です。
なぜなら何世紀にもわたって、青は聖母マリアの象徴であり、白は純粋さを示してきたからです。
世界がクリスマスプレートをどれだけ大切にするかを知らなかったロイヤルコペンハーゲンは、この最初のプレートを控えめに2025枚だけ制作しました。
当時の皇太子妃ルイーズは、このお皿を気に入ってすぐに購入した記録が残っており、
このニュースは瞬く間に広まり一躍人気を博します。
今日、このプレートは非常に愛されており、すべてのクリスマスプレートの中で最も高く評価されているものの1つです。
1909年
Danish Landscape 1909
デンマークの風景
by Stephan Ussing
この冬の夜に輝く星空の風景は北欧諸国の中で最も小さな国であるデンマークの多くの地域で見られる郷愁的な風景。
デンマークの海岸線の長さは約5,000マイル、国土面積は16,576平方マイル、約500の島々(そのうち約100の島しか住んでいない)とユトランド半島から成り立っています。
ユトランド半島は、南側をドイツに囲まれており、総面積の約4分の3を占めています。東ユトランドの森、フィヨルド、丘陵地帯から西海岸の陽光あふれるビーチまで、対照的な風景が広がる。
最大の島はジーランドで、その島には首都であり最大の都市であるコペンハーゲンがあります。
コペンハーゲン市街地には、デンマークの総人口の約5分の1にあたる約120万人が住んでいます。コペンハーゲンの街並みや美しい田舎の風景は、海外からの旅行者にも人気を集めている。
1910年
The Magi
三賢者
by Christian Thomsen
このプレートはマタイによる福音書に登場する、東方からキリストの子を探しに来た3人の賢者(メルキオール・バルタザール・カスパール)の旅の終わりを描いています。
プレートの通称であるThe Magiとは、ラテン語では東方から来た天文学者や占い師を意味し、「博士」あるいは「賢者」とも訳される。
プレートのフチ上部にあしらわれた星の意匠は東方からベツレヘムにまで彼らを導いた星を意味します。
この上部に配置された星は1930年のデザインにも踏襲され、現在のRoyal Copenhagenイヤープレートに受け継がれた意匠の原型です。
以下、マタイによる福音書(2章1-11節)
イエスはヘロデ大王の時代に、ユダヤのベツレヘムの町でお生まれになりました。そのころ、天文学者たちが、東の国からはるばるエルサレムへやって来て、こう尋ねました。
「このたびお生まれになったユダヤ人の王様は、どこにおられますか。私たちは、その方の星をはるか東の国で見たので、その方を拝むために参ったのです。」
それを聞いたヘロデ大王は、ひどくうろたえ、エルサレム中がそのうわさで騒然となりました。
ヘロデはさっそくユダヤ人の宗教的指導者たちを召集し、「預言者たちは、メシヤ(ヘブル語で、救い主)がどこで生まれると告げているのか」と尋ねました。
彼らは答えました。「ユダヤのベツレヘムです。預言者ミカがこう書いております。
『ベツレヘムよ。
あなたはユダヤの中で、
決して小さな町ではない。
あなたから偉大な支配者が出て、
わたしの国民イスラエルを
治めるようになるからだ。』(ミカ5・2)」
それでヘロデは、ひそかに天文学者たちを呼びにやり、その星が初めて現れた正確な時刻を聞き出しました。
そして彼らに、「さあ、ベツレヘムへ行って、その子を捜すがいい。見つかったら、必ず知らせてくれ。私も、ぜひその方を拝みに行きたいから」と命じました。
彼らがさっそく出発すると、なんと、あの星がまた現れて、彼らをベツレヘムに導き、とある家の上にとどまりました。 10 それを見た彼らは、躍り上がって喜びました。
その家に入ると、幼子と母マリヤがいました。彼らはひれ伏して、その幼子を拝みました。そして宝の箱を開け、黄金と乳香(香料の一種)と没薬(天然ゴムの樹脂で、古代の貴重な防腐剤)を贈り物としてささげました。
1911年
Danish Landscape 1911
デンマークの風景
by Oluf Jensen
木の枝に麦わらを括り付けた風景。
日本ではなじみのない光景ですが、デンマークの田園地方では今でもよく見られます。
デンマークの農家では収穫した小麦を1つの束にしておく風習があるのですが、
クリスマスになるとその小麦の束を棒に刺し、鳥たちへのクリスマスのごちそうとしておすそ分けするのです。
都会に住む人たちもこの風習は根付いており、
窓の桟に積もった雪を取り除き、羽の生えた友達のために小さなパンやパンくずを与えます。
そんな何気ない光景の中に、小さな命を愛する精神が宿っているのがこの図案の意味するところでしょう。
ちなみに、このクリスマスプレートはロイヤル・コペンハーゲンのイヤープレートが標準としたサイズの最初のものでもあります。
実は1911年、1908年、1909年、1910年のプレートには、同じモチーフでサイズを小さくしたものが20枚ほど作られていました。
この20枚のプレートは現在では入手困難で、購入するには高額な費用が必要です。
また、このプレートは松ぼっくりをリムのデザインに使用した最初のプレートでもあります。
1911年以降多くのプレートが何らかの形で松ぼっくり柄のデザインを取り入れていますが、そのルーツがこの1911年のものとなります。
1941年には標準的なリムのデザインが決定され、1911年のプレートと同じように松ぼっくりが使用されています。
1912年
Elderly Couple by the Christmas Tree
クリスマスツリーのそばの老夫婦
by Christian Thomsen
クリスマスは北欧で最も古いお祭りです。
1912年のプレートのモチーフはクリスマスツリーを前に手と手を取り合う老夫婦。
目の前のクリスマスツリーだけでなく、過去に共有した多くのクリスマスの平和なひと時をも懐かしく見つめているような雰囲気が漂っています。
100年以上も前に描かれた愛情あふれる一コマですが、現代の人の心にも通じる普遍的な良さを感じますね。
1913年
Spire of Frederik’s Church
フレデリクス教会の尖塔
by Arthur Boesen
コペンハーゲンのフレデリクス教会の尖塔が描かれています。この教会は別名「大理石教会」とも呼ばれている。1770年から廃墟と化していたが、1894年にデンマークの資産家C.F.ティエトゲンの費用で修復された。
建築家はメルダールで、ロマネスク・バロック様式で建てられている。
ちなみにフレデリクス教会はコペンハーゲンのアマリエンボー地区にあり、これは1954年のイヤープレートの題材となっているアマリエンボー宮殿のすぐ近くに位置します。
イヤープレートは発行される前年からモチーフ選びや試作が開始されることもありますが、この1913年のイヤープレートが発売された前年の1912年はデンマーク王であるフレゼリク8世(Frederik 8.)の没年にあたります。
確かなソースはありませんが、この年にデンマーク王の名が冠された教会をモチーフに選んだ理由は亡き王を偲ぶためだったのではないでしょうか。
1914年
Sparrows in Tree at Church of the Holy Ghost
木にとまるすずめ
by Arthur Boesen
精霊教会 (The Church of the Holy Ghost,Helligandskirken)を囲む古い木のひとつに、デンマークにいつもいるスズメが写っています。この教会はコペンハーゲンの中心部にある有名な2つの広場、タウンホール広場とキングスニューマーケットの間にあります。
画像引用:Tripadvisor
精霊教会は15世紀に建てられた修道院の教会で、悲惨な火災の後、1730年から1732年にかけて再建されました。
その後もたびたび修復されており、最後は1878年から1880年にかけて行われた。
このプレートのリムは、シリーズの中で唯一鳥が描かれているという点でユニークである。
1915年
Dnish Landscape 1915
デンマークの風景
by Arnold Krog
1915年のプレートのモチーフは、クリスマスイブに教会へ行く人々。
この光景は今でもデンマークの冬の夜に時々見られます。
この年のデザイナーは、1884年にロイヤル・コペンハーゲンに入社し、ブルーフルーテッドシリーズのデザインを一新したアートディレクターのArnold.Krog(アーノルド・クローグ)。
現代的によみがえったブルーフルーテッドは好評を得て、低迷していたロイヤル・コペンハーゲンの債権のきっかけとなりました。
今作は、アーノルド・クローグによる唯一のイヤープレートである。
ちなみに、この冬の夜にソリに乗る人々の後ろ姿のモチーフは1964年のイヤープレートによく似たシーンが採用されています。
1916年
The Shepherds in the Field on Christams Night
野の羊飼い
by Richard Bøcher
ルカによる福音書2章8-20に伝わる、天使が羊飼いたちの前に現れた様子を描いたプレートです。
「その地方では、羊飼いたちが夜な夜な畑に出て羊の群れを見張っていた。すると、主の御使いが現れ、主の栄光が彼らの周りに輝いたので、彼らは恐れおののいた。恐れてはならない。見よ、私はあなた方に、すべての民にもたらされる大きな喜びの吉報を持ってきた。それは、今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主、すなわち、主キリストがお生まれになるということです。これは、あなたがたへのしるしです。すると突然、天使たちと一緒に、大勢の天の軍勢が神を賛美して言った。「最高位にある神に栄光あれ、地には神の喜ばれる人々の間に平和あれ」。天使たちが彼らから天に去って行くと、羊飼いたちは互いに言った。「ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見てこよう」。そして、急いで行ってみると、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に横たわっている赤子がいた。彼らはそれを見て、この子について自分たちに語られていた言葉を伝えた。それを聞いた人たちは、羊飼いたちが彼らに語ったことを不思議に思った。しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、考えていた。羊飼いたちは、自分たちが聞いたこと、見たことすべてについて、神を讃え、賛美しながら帰って行った。” (ルカ2:8-20)
1917年
The Tower of Our Saviour’s Church
救世主教会の塔
by Oluf Jensen
救世主教会は、コペンハーゲンのクリスチャンシャヴンと呼ばれる地区にありますクリスチャン5世は1682年にこの教会を建設させ、1696年に塔を除いて完成させた。完成当時は、赤煉瓦と砂岩の2種類とされていた。1750年頃、フレデリック5世は、銅で覆われた塔の上に、黄金の地球儀を載せ、その上に救世主の等身大の像を載せました。地球儀は眼下の街を祝福していることを表している。
Photo by Avda
塔の壁には、建物の外側にある円形の階段と、高い幅のアーチ型の窓が飾られています。
塔と像の設計はデンマークの建築家・ローリッズ・デ・スーラ(Lauritz de Thurah)が担当した。
新しい教会を見た王は、階段の曲がり方が間違っている(螺旋の向きが逆)と建築家を批判し、
その言葉を受けたトゥーラは建物の上から身を投げたという逸話が残っているが、この都市伝説は後年の研究によって否定されています。(wikipedia-Church of Our Saviour, Copenhagen)
1918年
The Shepherds
羊飼い
by Oluf Jensen
1918年のプレートには、ベツレヘムの丘にいる羊飼いたちが夜な夜な羊の群れを見張っている様子が描かれています。
「その夜、町はずれの野原では、羊飼いが数人、羊の番をしていました。 そこへ突然、天使が現れ、主の栄光があたり一面をさっと照らしたのです。これを見た羊飼いたちは恐ろしさのあまり震え上がりました。(ルカによる福音書 2章8-9節)」
彼らの頭上を照らすひときわ大きな星は主の栄光を表わすのでしょう。
或いはマタイ伝による東方の三賢者をベツレヘムに導いた星なのかもしれません。
春に子羊が生まれると、羊飼いは一晩中起きて羊の群れを守らなければなりませんでした。
羊飼いたちが夜な夜な羊の群れを見張っていたという事実(ルカ福音書2:8)から、歴史家や天文学者の中にはキリストは春に生まれたと考える人もいます。
初期のキリスト教徒は1月6日を選んで、降誕祭、エピファニー、洗礼を祝っていたことが知られている。
その後、異教徒の祭りであるサトゥルナリアに合わせて降誕祭は12月25日に変更されました。
1919年
In the Park
公園にて
by Oluf Jensen
この何気ない冬の公園の風景がモチーフに選ばれた意味は、すでに作者が没した今では確かなところはわかりません。
しかし、キリスト教的な観点で見ると雪の中で餌を探している小鳥の姿に理由があるのではないかと思わされます。
「空の鳥をよく見なさい。あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイによる福音書6章26)
神によって生かされている小さな存在をモチーフとして選ぶことによって、厳しい環境にあっても思い悩むことなく生きる美しさを表現しているのかもしれません。
1919年と言えば第一次大戦終戦の翌年。(モチーフが選ばれたのは前年の可能性もあります。)
この時代のデンマークは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)の敗戦によりユトランド半島南部を割譲した影響や、第一次大戦による輸出経済の悪化によって深刻な経済危機を経験しています。
このトラウマによってデンマークは現在に至る福祉国家の礎を築いたと言われています。
1920年
Mary with the Child Jesus
イエスを抱くマリア
by Gotfred Rode
モチーフは1895年にロイヤルコペンハーゲンに入社した画家のGotfred Rodeによる聖母子像。
初年度の1908年にも同じモチーフが選ばれていますが、今作には羊の頭が描かれています。
これはルカによる福音書のイエスの誕生を表現しているのかもしれません。
(イエスの誕生を伝える福音書は2つあり、もう一方のマタイの福音書には馬小屋の描写はありません。)
注目したいのはマリアの顔に浮かぶ、穏やかな慈しみの表情。
何を考えているのか、そのヒントはルカ福音書の一節にあります。
「しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留め、思い巡らせていた。(ルカによる福音書 2章19)
1921年
The Market Place in Aabenraa
オーベンローの市場
by Oluf Jensen
南デンマークに位置するオーベンローの何気ない市場の光景。
Photo byAqwis
なぜこの年に何の変哲もない小さな海辺の町がモチーフに選ばれたのか?
その答えはこの町が位置する南ユトランドの歴史を紐解けば明らかになります。
この町は第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の結果、1864年にデンマークからプロイセンに割譲され、北ドイツ連邦を経て1871年にドイツ帝国に組み入れらました。
その後、ドイツの第一次世界大戦における敗戦に伴い、南ユトランドの一部は再びデンマークに帰属することになります。
その南ユトランド地方の返還が決定したのが1920年。
イヤープレートは立案・製造の工程を前年から行うことがありますので、1921年のプレートのモチーフにオーベンローが選ばれていても計算が合います。
国を挙げた南ユトランド返還のお祝いは4日間続きました。
時のデンマーク王クリスチャン10世が馬に乗ってオーベンローを通過したとき、女性だけでなく男性も涙を流して喜んだと伝えられています。
1922年
Tree Singing Angels
三人の歌う天使
by Mrs. Selschou-Olsen
この年代のイヤープレートはイエスの誕生をモチーフに選ぶことが多いため、この歌う三人の天使もルカによる福音書に伝わる羊飼いの前に現れた天使が神をたたえているシーンなのかもしれません。
以下、ルカによる福音書(2章 13-14節)
するとたちまち、さらに大ぜいの天使たちが現れ、神をほめたたえました。
「天では、神に栄光があるように。
地上では、平和が、
神に喜ばれる人々にあるように。」
1923年
Danish Landscape 1923
デンマークの風景1923
by Oluf Jensen
デンマークの一般的な農場の風景。
(デンマークの国土は日本の九州とほぼ同じ面積、その60%以上が農場や牧場に利用されています。)
第一次大戦中、肥料や牧畜用の飼料の多くを輸入に頼るデンマークの農畜産業は深刻なダメージを負いました。
この年のプレートには、平和になったデンマークの農業の急速な回復を象徴するようなモチーフが選ばれています。
1924年
The Christmas Star over The Sea
海上のクリスマスの星
by Benjamin Olsen
偉大な海洋画家であるクリスティアン・ベンジャミン・オルセン(Chr. Benjamin Olsen)(1873-1935)による、デンマークの伝統的な帆船がモチーフ。
ベンジャミン・オルセンは海軍に所属し、多くの海を見ながら独学で絵画を学びます。
1906年から亡くなるまでは磁器の絵付け師として働き、最初はビング&グロンダール社、1913年からロイヤル・コペンハーゲン磁器工場で働き始めました。
そして多くの帆船モチーフのウォールプレートやフラワーベースを制作しています。(クリスマス時期に販売されるイヤープレートだけでも、1924年・1927年・1930年・1933年・1935年)
当時からデンマークの経済には農産物・家具・陶磁器の輸出や石炭など原料の輸入が不可欠で、海運は太い生命線でした。
第一次大戦が終わり、第二次世界大戦が始まるまでのこの期間に、多くの帆船モチーフのイヤープレートが作られていることは、磁器の輸入会社でもあるロイヤルコペンハーゲンやデンマーク国民にとって大きな意味があります。
前年の農園モチーフは農業の急速な回復を象徴しているようにみえますし、その翌年の1924年に輸出の象徴である帆船が選ばれたのは必然的だったのかもしれません。
1925年
Street Scene from Christianshaavn,copenhagen
クリスチャン シャオンから見た通りの風景
by Oluf Jensen
風景はコペンハーゲン東部の美しい街・クリスチャン シャオン(クリスチャンハウン)。
クリスマス前によく見られる光景がモチーフになっています。
男性がクリスマスツリーを引きずって家路についています。
王冠マークにプレッツェルのような看板は、デンマークの伝統的なパン屋さんのもの。
クリスマスに欠かせないカイングラをついでに買って帰るのかもしれませんね。
1926年
View of Christmas Canal , Copenhagen
by Richard Bøcher
前年に引き続き、クリスチャン シャオンの風景。
このクリスマスプレートに写っている船は、小型の貨物船です。
このような船がデンマークの運河沿いの町々を行き来しているのである。
1927年
The Ship’s Boy at the Tiller on Christamas Night
by Benjamin Olsen
偉大な海洋画家Benjamin Olsenによる2枚目のイヤープレート。
大昔から船乗りたちに方角を教えてきた北極星と、迷える子羊を導くベツレヘムの星を重ね合わせたモチーフでしょうか。
余談ですがロイヤルコペンハーゲンのイヤープレートにはちょっとした謎があります。
それは、天使や聖人は正面から書かれることが多いのに対して、人間を描く際には後ろ姿が多い理由は何?というものです。
(議論の余地はありますが、45年・51年の後ろ姿の天使など例外はあります。)
導くものは正面・導かれるものは後ろ姿という不文律があるのか、それともただ単純に造作が複雑になる人の顔はなるべく省きたいという技術的な問題なのか、あるいは人物の容姿や年齢などを具体的に描かないことによって鑑賞者の感情移入を促進させるといったマーケティング上のテクニックなのか・・・?
謎と言えば、この時代にBenjamin Olsenの船のモチーフが不自然なほどに多いのも気になります。
名声が高く売り上げも良かったためなのか、戦後の復興のムードとヴァイキングの末裔であるデンマーク人の国民感情がマッチした影響なのか、なにか船にまつわる大きなイベントがあったのか・・?
もしなにかご存じの方がいらっしゃったらコメント欄で教えてください。
正解はわかりませんが、個人的にはこの1927年のプレートには、ロイヤルコペンハーゲンのイヤープレートに選ばれるモチーフのエッセンスが詰まっていて、興味の尽きない傑作だと思います。
1928年
The Vicar Family on the Way to Church
教会へ向かう牧師の家族
By Gotfred Rode
デンマーク特有の釉薬を使った絵付けの発明に貢献した画家の一人であるゴットフレッド・ローデによる「教会に向かう牧師一家」と題されたプレートです。
教会がクリスマスの礼拝のために飾られていないことから、日常の風景としてクリスマス前のシーンを選んだのかもしれません。
教会の窓は彩色せずに白く残すことで、中からこぼれる優しい光を表現しています。
中央の人物の白いマフラーのような衣装は、日本ではあまり馴染みがありませんが、ラフ(Ruff)と呼ばれる聖職者の正装の一部です。
ラフは現在もデンマーク教会の司教や聖職者の正装であり、一般的には礼拝の際に着用されます。
(ノルウェー教会では、1980年に聖職者の制服からラフが外されたが、保守的な聖職者は引き続き着用しています。)
1929年
The Grundtvig Church
グルンビッグ教会
by Oluf Jensen
その外観から別名パイプオルガン教会とも言われる、コペンハーゲンのグルントヴィークス教会(Grundtvigs Kirke)*の独創的な切妻屋根がモチーフ。
(*教会名は翻訳の都合で、グルンビッグ教会と表記されることがありますが、デンマーク語の発音に近いグルントヴィークス教会と呼称するのが一般的です。)
この教会を設計したのは、デンマーク・モダンデザインの父とも呼ばれる建築家、P.V.イェンセン・クリント(P.V.Jensen Klint)である。
1921年に着工し、外観は1926年に完成しましたが、内装などの工事は1940年になってから行われました。
(内装はイェンセン・クリントの息子でランプシェードメーカー「ル・クリント」の創業者であるコール・クリントが手がけました)。)
当時流行していた表現主義のスタイルで設計されたこの教会は、多くの人々を魅了したことでしょう。
プレートをデザインしたOluf Jensenの目にも印象的に映ったであろう、特徴的な屋根を大胆に切り取った構図が興味深いです。
1930年
Fishing Boats on the Way to the Harbor
帰港する漁船
by Benjamin Olsen
小さな漁船が港へ向けて走っています。
海洋画家のベンジャミン・オルセンによる波の表現が見事に美しく、釉薬の光沢との相性も良い作品です。
背景に見える山型の塔が特徴的ですが、どの建物なのかは現在調査中です。
1931年
Mother and Child
母と子
by Gotfred Rode
1932年
Frederiksberg Gardens with Statue of Frederik Ⅵ
フレデリック6世の銅像
by Oluf Jensen
イギリスとのいくつかの戦争を経験したデンマーク王・フレデリクス6世(在位:1808年 – 1839年)の有名なブロンズ像がモチーフとなっています。
コペンハーゲンの南西の町・フレデリクスバーグにはデンマーク王室の庭園「フレデリクスバーグ公園」があります。
フレデリクスバーグ公園のメインエントランスを入るとフレデリクス6世の像があります
このブロンズ像はハーマン・ウィルヘルム・ビッセンが制作したもので、彼の最高傑作の一つとされています。1858年9月10日に除幕されました。
1933年
The Ferry and the Great Belt
大ベルト海峡を渡るフェリー
by Benjamin Olsen
またしても偉大な海洋画家ベンジャミン・オルセンによる、大ベルト海峡を渡る船(船名:オーディン号)がモチーフ。
ベルト海峡とはデンマークのユトランド半島東部と島嶼部分の間、キール湾の北部にある海峡群の総称である。(wikipedia)
現在では使用が控えられているドイツ国歌の1番では、
Von der Maas bis an die Memel, von der Etsch bis an den Belt.
(マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡まで。)
と歌われており、ドイツの領土ではないベルト海峡までがドイツ民族のものであるとされています。
このプレートが作られた1930年代の初めの欧州情勢と言えば、極右政党ナチスの勢力拡大やヒトラーがドイツ総統に就任(1933年)し、第二次世界大戦に向けて緊張感を高めていた時代。
このような時代背景を踏まえた上でこのプレートを見ると、元海軍でもある作者のベンジャミン・オルセンはクリスマスプレートにデンマークの風景を描いただけではなく、それ以上の意味があったのではないかと思えてきます。
ドイツが国歌で主張する国境海域を走るデンマークの船「オーディン号」…。オーディンとは、北欧神話に登場する軍神の名前です。
1934年
The Hermitage Castle
一軒家
by Oluf Jensen
日本のロイヤルコペンハーゲンのウェブサイトでは「一軒家」とタイトルがつけられていますが、英語圏では「The Hermitage Castle」と呼ばれることが一般的です。
モチーフになっているのはコペンハーゲン中心部から車で30分ほど北上した場所に位置するエミルタージュ平原内の「Hermitage Hunting Lodge(隠者の狩り小屋)」。
別名ではエルミタージュ宮殿とも言われています。
このエリアには多くの鹿が生息し、長年にわたって王室の狩猟の中心地となってきました。1694年、クリスチャン5世は、コペンハーゲンの北にある鹿の公園に2階建ての木組みの家を建てました。代が変わり1734年になると、クリスチャン6世の命によってその建物は取り壊され、1734年から36年にかけて、王室の建築家であるローリッツ・デ・スーラが平野部の中央にある丘の上に現在の隠者の狩り小屋を建設しました。
この宮殿は、デ・スーラの建築技術を示す傑出した例であり、デンマークにおける後期バロックの最高傑作のひとつである。宮殿の平面図は、4階建てのすべての階で左右対称になっている。
1935年
Fishing Boat off Kronborg Castle
クロンボー城沖の漁船
by Benjamin Olsen
シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の舞台となったエルシノア城や、世界遺産としても知られるクロンボー城と、漁船がモチーフです。
1935年に没したベンジャミン・オルセンによる最後のイヤープレートです。
クロンボー城は、もともと1420年代に海峡を行き来する外国船から通行料を徴収するために建てられた砦でした。
失火によって焼け落ちたり、スウェーデンによって落城させられるたびに増改築行い、現在のルネサンス様式の姿に。
1585年には王宮として増改築され、近代ではデンマーク軍の基地司令部や商船博物館として利用されていた。
なぜ1935年のモチーフに選ばれたのかは不明ですが、このプレートが発行された年は、1585年の王宮建設350周年と1915年の商船博物館設立20周年にあたります。
1936年
Roskilde Cathedral
ロスキレ大聖堂
by Richard Bøcher
モチーフとなっているのは、コペンハーゲン郊外のロスキレの中心部にあるロスキレ大聖堂です。
この大聖堂には39の王家の墓があり、今日でもデンマークの君主たちの埋葬地となっています。1995年にはクロンボー城やイェリング墳墓群と並んでユネスコの世界遺産に登録され、毎年10万人もの観光客が訪れています。
1937年
Christmas Scene in the Main Street,Copenhagen
コペンハーゲンのクリスマス
by Nils Thorsson
1937年のクリスマスプレートのモチーフは、コペンハーゲンのメインストリートであり、現在は歩行者天国になっているストロイエです。デンマークのメインストリートらしく、ストロイエはトウヒやライトでクリスマスの飾り付けがされています。クリスマスに向けて買い物をする人々の姿も見えます。このプレートは、1941年と1942年もデザインしたNils Thorssonのデザインです。
1938年
The Round Church in Österlars on Bornholm
ウスタラースの半円形の教会
by Herne Nielsen
Østerlarsはデンマークのボーンホルム島の北東部にある村で、島には丸い教会があることで知られています。
1160年頃に建てられたこの教会には、かつて要塞化されていたことを示す証拠があり、最上階である3階は開放された射撃場になっています。
1939年
Expeditionary Ship in the Pack-ice of Greenland
by Nic Nielsen
1933年に常設国際司法裁判所によってデンマークの主権が認められたばかりのグリーンランドの風景がモチーフとなっています。
船名はGustav Holm。
グリーンランドの調査で大きな功績をあげた探検家の名前が付けられた帆船です。
他の年のプレートはリムの部分に松ぼっくりの意匠が使われることが多いのですが、この年のリムにはグリーンランドのイメージに合わせたのか、星の光を表わしたような表現になっています。
Nic Nielsenによる唯一のクリスマスプレート。
1940年
The Good Shepherd
よき羊飼い
by Kai Lange
デンマークの隣国のドイツがポーランドを侵攻し第二次世界大戦が勃発した翌年のクリスマスプレート。
(1940年4月にはデンマークはドイツに占領されていますが、モチーフやアーティストのカイ・ランゲが選ばれた時期は不明。)
このモチーフは、ヨハネによる福音書第10章で、イエスが「失われた子羊を救うために自分の命を捨てる」と宣言した場面を描いたものです。
以下、ヨハネによる福音書10章より引用。
イエスは説明なさいました。「いいですか。わたしが羊の出入りする門なのです。 8 わたしより前に来た人々はみな、どろぼうか強盗です。
羊は、彼らの言うことは聞きませんでした。 9 わたしは門なのです。この門から入る者は救われます。また、安心して出入りができ、緑の牧草を見つけるのです。 10 強盗は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。しかしわたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。 11 わたしはまた、良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにはいのちも捨てます。 12 雇い人は、狼が来れば羊を捨てて、すぐに逃げ出します。彼らは羊の持ち主でも、羊飼いでもないからです。こうして狼は羊にとびかかり、群れを追い散らしてしまいます。 13 雇い人はお金で雇われているだけで、羊のことをほんとうに心にかけているわけではないので、平気で逃げてしまうのです。 14 わたしは良い羊飼いであり、自分の羊を知っています。また、羊もわたしを知っています。 15 わたしの父がわたしを知っておられ、わたしも父を知っているのと同じです。わたしは羊のためにいのちを捨てるのです。 16 このほかに、別の囲いにも羊がいます。その羊をも導かなければなりません。やがてその羊も、わたしの声に注意深く聞き従い、一人の羊飼いのもとに一つの群れとなるのです。 17 わたしが再びいのちを得るためにいのちを投げ出すからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 18 だれもわたしの意に反して、わたしを殺すことはできません。わたしが、自分から進んでいのちを捨てるのです。わたしには、いのちを自由に捨て、もう一度それを得る権威と力があるからです。父がこの権威を下さったのです。」
当時の世界情勢が1940年のクリスマスプレートのモチーフにどのような影響を与えたのかはわかりませんが、小さな国デンマークの心情をよく表していると思います。
この作品は、後に最も多くのクリスマスプレートをデザインすることになるカイ・ランゲの最初の作品です。
1941年
Danish Village Church
デンマークの村の教会
by Theodor Kjølner
デンマークの田舎にある典型的な教会。
コペンハーゲンから北に位置する都市・ヒレレズの教会(Nørre Herlev教会)モチーフだと言われていますが、実際のNørre Herlev教会には1941年のプレートのものには煙突があり、少し異なっています。
1942年
Bell-tower of Old Church in jutland
ユトランドの鐘楼
by Nils Thorsson
1941年に続くデンマークの田舎の典型的な教会の鐘がモチーフです。
タイトルにはユトランドの教会とあります。
ドイツによる占領が続く時代の作品。
ユトランドはドイツとデンマークの国境にある半島で、1920年のベルサイユ条約に基づく国民投票でデンマークに返還されたが、当時のドイツ国歌ではドイツ領であるとされています。
あえてこのタイミングでユトランドの風景をモチーフに選んだのは、デンマーク領土であることを主張する意味合いが込められていたとするのは考えすぎでしょうか。
1943年
The Flight of the Holy Family to Egypt
エジプトへはばたく聖家族
by Nils Thorsson
1943年もナチスドイツによる占領が続き、デンマークやその他の多くのヨーロッパ諸国にとっては受難の時代でした。
このイヤープレートには、救いを信じて厳しい状況を耐ていこうというメッセージが込められているように思えます。
このプレートのモチーフはマタイによる福音書2章に記された、イエス家族のエジプトへの逃避。
新たにユダヤの王となる子ががベツレヘムに生まれたと知ったヘロデ大王は、自らの権力を守るためイエスの命を狙います。
その凶刃から逃れるための旅の始まりが描かれています。
登場人物はイエスとイエスを抱くマリア、マリアの夫であるヨセフ。
福音書の描写通りに夜の場面となっています。
1944年
Typical Danish Winter Scene
デンマークの代表的な冬の風景
by Viggo Olsen
定説ではデンマークの典型的なルーテル派教会がモチーフとされていますが、枯れ木のようにも見える木立がメインの構図となっています。
クリスマスな幸せなムードを演出するイヤープレートの題材としては、すこし悲しげな印象なので違和感がありませんか?
新約聖書の価値観でこの図柄を見てみると、ルカ23章に記された、十字架を背負ったイエスが処刑場のゴルゴタの丘に向かう場面が思い起こされます。
イエスがその時に嘆き悲しむ女たちに語った言葉はこうです。
「わたしのために泣くな。自分のために泣くがいい。もし彼らがわたしにこの事をするなら、あなたたちに何をするだろうか。」
「生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」
生木はイエスのことを指し、「枯れ木」や「彼ら」とはイエスに刑を執行しようとするローマ人のこと。
1944年年のイヤープレートは、枯れ木をドイツ帝国に見立てて、後に報いを受けるだろうというメッセージを暗示しているのかもしれません。
1945年
A Peaceful Motif
平和のモティーフ
by Richard Bøcher
第二次世界大戦が終結した1945年のモチーフは、クリスマスローズを見つめる小さな天使。
釉薬部門の責任者も務めた大御所Richard Bøcherによる1936年以来の作品。
もの悲しさと未来への希望が入り混じったような複雑な雰囲気を感じさせます。
クリスマスローズは雪を割って咲くため、デンマークでは「忍耐」や「強い意志」を象徴しています。
そして、十字架や墓標のようにも見えるやや不自然な形のフェンスが描かれていることから、戦没者への哀悼の意や戦争を耐え忍んだ人々への共感を表しているのでしょう。
もしかすると、雪の下で耐え忍ぶ強い花は、ナチスドイツに地下で抵抗したレジスタンスのメタファーとしても描かれているのかもしれません。
戦後の物資不足のなかで生産数が少ない事や、絵柄に秘められたストーリー性の高さから、ロイヤルコペンハーゲン・イヤープレートの中でも屈指の人気作品となっています。
1946年
Zealand Village Church
村の教会
by Nils Thorsson
コペンハーゲンから北西に15キロほどに位置するファールム教会(Farum Church)。
アーティスト
人名の読みについては正確性を欠く場合がございますのでご了承ください。
Arnold Krog
アーノルド・クローグ(1856-1931)
デンマークの建築家、画家、デザイナー
1884年から1916年までロイヤル・コペンハーゲンのアートディレクターをを務める間に、
それまでのブルーフルーテッドに代表される堅苦しい古典的なスタイルを刷新させ、低迷していたブランドを復活させました。
Oluf Jensen
オルフ・イェンセン(1871-1934)
デンマークのコペンハーゲンに生まれた画家、版画家、陶芸家。
1890年に技術学校を卒業した後、1985年まで王立デンマーク・アカデミーで学ぶ。
同年、アーノルド・クローグの指導のもと、ブルーフルーテッド部門で見習い、有名なコバルトブルーの顔料を、繊細で繰り返しの多い花柄を絵付けするする技術を学びました。
イェンセンは1934年までロイヤルコペンハーゲンで働き、磁器の絵付けとデザインを担当し、最終的には釉薬部門の責任者となりました。
現在では、アーノルド・クローグとともに、デンマークの釉薬を使った磁器の発展に最も大きな影響を与えたアーティストの一人とされています。
Stephan Ussing
ステファン・ウッシン(1868-1958)
デンマークの画家。
1896から1930年にロイヤル・コペンハーゲンに所属。
Gotfred Rode
ゴットフレッド・ロデ(1862-1937)
1883年に薬剤師免許を取得し、1892年まで薬剤師として働く。
1892年からは美術アカデミーに入学し、3年後には王立美術院のノイハウゼン賞を受賞するまでに技術を磨きました。
1895年からはロイヤルコペンハーゲンの下絵師として採用されデンマーク特有の釉薬を使った絵付けの考案に貢献し、デンマークの特殊な下絵の中でも最も芸術的にも技術的にも優れた巨匠と称されています。
Benjamin Olsen
ベンジャミン・オルセン (1873-1935)
デンマーク海軍に所属し、1921年と1926年には国王夫妻とともにフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドを訪れ、自然な空と海の描写や、しっかりとした船の描写に大きな影響を与えたという。
彼はさまざまな船会社から依頼された数多くの船の絵を描く一方で、下絵の描き方をマスターした。
1906年から亡くなるまで磁器の絵付け師として働き、最初はビング&グロンダール社で、1913年からはロイヤル・コペンハーゲン磁器工場で中心的存在となったのである。
Richard Bocher
リカルド・ボーチャー(1887-1953)
デンマークの風景画家、グラフィックアーティスト
ドイツで磁器の絵付けを学び、1912年にロイヤルコペンハーゲンに就職。
アーノルド・クローグやゴットフレッド・ローデと協力して、ロイヤル・コペンハーゲン特有の釉薬付き磁器を開発し、自分の絵をもとに風景のモチーフを提供した。
1934年からは釉薬部門の責任者を務めるなど、長年にわたって活躍しました。
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